由 緒

「御祭神記」には、延元元年(千三百三十六年)から延元三年(千三百三十八年)
にかけての後醍醐天皇、尊良親王、恒良親王の避難、
戦闘、死去に関する記録。
彼らの戦いと最期が詳細に記されており、
金崎宮の由緒の元となっている。

御祭神記

延元元年(1336年)、後醍醐天皇は比叡山に避難し、官軍再興のため新田義貞と尊良親王を派遣したが失敗。恒良親王も気比氏治に護衛され、敦賀に避難するも足利軍の攻撃で金ケ崎城が陥落。尊良親王と共に亡くなり、恒良親王は瓜生山城で捕えられ幽囚された。延元三年(1338年)に恒良親王は毒殺され、享年十五歳だった。この記録は彼らの避難、戦闘、最期を詳細に伝えている。

御由緒略記

明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を 執行し、依頼毎年6日を以て例祭日と定められた。しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。

金ケ崎城跡

金ケ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
当宮の境内地のだいぶぶんはが金ヶ崎城の旧跡で、その重要な史跡の多くは神域内にあり、昭和9年3月13日国の史跡に指定された。現在は市の公園として人々の憩いの場にもなっている。

史跡金ケ崎城

【鷗ヶ崎】
東宮社務所より西方へ250メートルほどの風光明媚な場所
【月見御殿】
鷗ヶ崎より階段を北東に登っていくと頂上近くに金ケ崎古城跡の碑があり、このあたり一体の平地が本丸の跡といわれ、少し登ったところが最高地で月見御殿という
【絹掛の松】
月見御殿より眼下を望む小島のような岬が見え、ここが絹掛ノ崎という。
【城戸跡】
ここには三箇所の城戸跡が残っている。
【尊良親王自刃見込地】
金崎宮本殿の背後の高台にある。